森鴎外/永井荷風/谷崎潤一郎…大正期の文化人の溜まり場、銀座の「カフェープランタン」【喫茶よもやま通信vol.2】

喫茶店にまつわるよもやま話をお届けする連載コラム、「喫茶よもやま通信」。

第1回からかなり時間が経ってしまいましたが、第2回は、大正期の銀座において作家や芸術家たちの溜まり場だった「カフェープランタン」を深掘りします。

パリのカフェーを目指して。銀座「カフェープランタン」

カフェープランタンは、1911(明治44)年に銀座に創業しました。日本で初めて店名に「カフェー」をつけた店とされています。

「プランタン」は、フランス語で「春」を意味する言葉。春の季節に開店したことから、その名がつけられました。
しかし、当時の日本人にとっては耳慣れない言葉だったため、なかなか店名を覚えてもらえなかったそう。

創業者は2人の画家、松山省三氏と平岡権八郎氏です。(松山氏が中心、平岡氏は家の反対にあい、のちに離脱)

松山氏は留学経験のある画家の知人・黒田から、パリには画家や文学者など、芸術家たちが集い交遊する「カフェー」なるものがある……と聞き、興味を持ちます。

「カフェ・コンセール」 エドガー・ドガ

また、1910(明治43)年に日本橋に登場した、バーを兼ねた西洋料理店「メイゾン鴻ノ巣」が、明治時代末期の青年文芸・美術家の懇談会である「パンの会」の芸術家たちの溜まり場して話題になっていたことにも刺激を受けました。

芸術家たちが悠々と語らったり、待ち合わせができるヨーロッパのカフェーのような場所が欲しい。松山氏と平岡氏はそう考え、カフェー・プランタンを創業しました。

当時のパリのカフェー(カフェ・コンセール)は、ショーを見ながら酒を飲み、食事をする場所だったそう。

カフェー・プランタンもパリのカフェーにならい、洋酒を数多く取り揃えていました。現代における「カフェ」とは違い、レストランやバーのような業態に近かったようです。

当時まだ珍しかったカクテルも提供。色と比重の異なる五種類の酒が層になった「五色の酒」が名物だったそうです。
ハンバーグやサンドイッチなど洋食メニューも豊富でした。

「五色の酒」は色の違う酒が層になったカクテル(イメージ画像)

カフェープランタンの登場後、「カフェーパウリスタ」や「カフェーライオン」など、いくつものカフェが銀座にオープン。このころから、日本の喫茶店/カフェー文化は大きく発展します。

カフェー・プランタンの華麗なる常連客

創業者の画家2人は経営には不慣れだったため、開店当初は、店の経営を安定させる目的で「維持会」という会員組織を設けていたそう。
2階の和室3室を会員専用フロアとして、維持会メンバーからは会費を徴収していました。

維持会には、画家(黒田清輝)や文学者(森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎)、マスコミ関係者(松崎天民)、俳優(市川猿之助)、政治家(鳩山一郎)など、そうそうたる文化人が参加していました。(※カッコ内は会員の一例。順不同、敬称略)

維持会は会費が徴収できなかったり、会員同士の不仲があったりとうまく機能しなかったため、半年ほどで廃止に。維持会廃止後も、元会員を中心に、多くの文化人が常連客としてカフェー・プランタンに訪れ、交流を深めました。

当時最先端だった「カフェー」という形態の店の先駆けが「カフェープランタン」だったので、「当時の芸術家や文芸家などと呼ばれた人々は、必ず一度はプランタンを訪れる」と言わていました。カフェープランタンが、知らない人はいないと言っても過言ではないほどの有名店だったことが伺えます。

店内の階段の欄干部分には、画家たちが描いたカリカチュアがいくつも貼られていました。白い壁や天井には、絵や詩、俳句などがびっしりと書かれていて、その落書きは文学好きの間では非常に有名だったそう。プランタンの2階は、文学好きな若者たちの憧れの場所でした。

永井荷風、高村光太郎…プランタン文化人エピソード

多くの文化人が常連客として通ったプランタン。
誰それが通った、こんなことがあった……といったエピソードを、いろいろな人が文章に残しています。

文化人たちの日常のひと幕をご紹介します。

※同じエピソードでも文献によって細部が異なる場合がありますので、あくまで一例としてお楽しみください。

永井荷風×押川春浪、作家2人があわや大乱闘

永井荷風は、東京出身の小説家で、著書に『あめりか物語』『ふらんす物語』『腕くらべ』などがあります。慶應義塾文学部の教授を務め、文芸誌『三田文学』の発行・編集にも携わりました。銀座のカフェー通いや芸者との交流、後年には浅草のフランス座やロック座(ストリップ劇場)の楽屋に通うなど、女性との交遊が多かったことでも知られています。

現在の「東洋館(浅草フランス座演芸場)」の表に貼られている写真。手前の左から2番目が永井荷風。現在の東洋館はストリップ劇場ではなく漫才等が中心の演芸場。

荷風は、当時の恋人であり一時期婚姻関係にもあった、日本舞踊家/新橋芸者の八重次(藤蔭静樹・ふじかげせいじゅ)とのデートで、カフェープランタンによく訪れていたそう。

しかし、同じくプランタンの常連で荷風との交流もあったSF作家・押川春浪とのいざこざにより、荷風はプランタンに通うのをやめてしまいます。

それは、荷風が友人と劇を見に行ったある日のこと。
観劇終わりに、恋人・八重次と知り合いの女優(劇が終わったあとに偶然会ったそう)、そして劇を一緒に観ていた友人の4人で、プランタンへ行きました。

その時、荷風はベロベロに酔っぱらっている押川春浪を見つけます。
押川と荷風はもともと友人として交流があったものの、押川は酒癖が悪く、酔って周りの人に議論をしかけることも多かったのだとか。

女性を連れていたこともあり、荷風は激しく酔っている様子の押川には声をかけずに、2階の席に向かいました。

押川は荷風のその態度に腹を立てて、2階の席へやってきて荷風たちを罵倒し始めます。
その声を聞きつけ、押川と一緒になって酒を飲んでいた数名(※荷風とは面識なし)も2階に上がってきて、あわや乱闘騒ぎになるところでした。

荷風と押川のエピソードは有名だったらしく、当時プランタンに通っていた文化人たちが、雑誌等にその時のようすを寄稿しています。

文献によって若干内容が異なる部分もあります。プランタンでの喧嘩のあと、「押川は店から逃げた荷風らを追いかけ、荷風と八重次がよく行く待合(芸者との遊興・飲食をする店)に乗り込んだ……つもりが間違えて同じ名前の別の店に行ってしまい、暴れた結果店の者にボコボコにされた」なんて話も……。

いずれにせよ、お酒の飲み過ぎはよくないですね……。この事件がきっかけとなり、荷風は押川との交流をやめ、カフェー通いもやめました。後年になり2人は和解しましたが、押川はお酒の飲み過ぎで早くに亡くなられたそうです。

「うちに来ない?」荷風の恋人・八重次がオーナーを家に誘った理由

永井荷風の恋人であり一時期婚姻関係にもあった、日本舞踊家/新橋芸者の八重次(藤蔭静樹・ふじかげせいじゅ)。
日本舞踊の名取(なとり:家元・師匠から芸名を許されること)で、歌も詠む上に美貌も兼ね備えている“文学芸者”として評判を呼び、プランタンに集う文化人にも臆することなく接していました。

当時の芸者は今でいう芸能人のような、スター的存在。カフェーに集う文化人たちと対等に会話できる知識や教養も兼ね備えていた八重次は、一目置かれた存在だったのではないかと思います。

そんな八重次は、「荷風が最近家に来てくれないから、代わりに来てくれない?」と、プランタンのオーナー・松山省三によく言っていたそう。
恋人とデートで使っている店のオーナーを家に誘うなんて、八重次さん大胆……! と思いきや、どうやら本気で誘っていたわけではないよう。

松山と荷風は風貌がよく似ていて間違えられることが多かったので、それをネタに松山氏をからかっていたそうです。

八重次さんは、松山さんよりも4つ年上。年上で才色兼備の有名人にそんなふうにからかわれた松山氏はどんな気持ちだったんでしょうか……。

まじめに創作にふけった詩人・高村光太郎

芸術家たちが多く通ったカフェープランタンでは、まじめに創作にふける人もいました。その一人が、詩人の高村光太郎。

詩集『道程』-泥七宝の詩の中の三遍はプランタンで書かれたものだそう。

酔へる人のうつくしさよ
酔へる真似する人の醜さよ
カフエの食卓ぞ滑稽なる
 ◯
八重次の首はへちまにて
小雛の唄は風鈴にて
さてもよ、がちやがちや蟲(むし)の籠は
「プランタン」てね、轡蟲(くつわむし)の竹の籠
 ◯
女の涙をののしりて
酔を男の
卑屈なる武器とはおぼし給はぬにや
いと賤しき武器とは

※詩集『道程』-泥七宝 高村光太郎 より

この中には、「プランタンの常連だった評論家の男の、酔っ払った様子に憤りを感じたことから生まれた詩もある」とのこと。おそらく、「女の涙をののしりて……」の詩ですかね。

時代を彩る文化人たちが集い、彼らの人生が交差するカフェーという場は、創作を生業とする人々にとっては刺激になる場所だったんだろうな……と感じます。

関東大震災後のカフェー・プランタン

カフェープランタンが銀座に登場して以来、銀座には多くのカフェーが生まれていきます。「カフェーライオン」「カフェーパウリスタ」など、プランタン以外のカフェーにも文化人たちは足を運び、文化人の溜まり場としてのカフェーは銀座を中心に徐々に増えていきました。

しかし、関東大震災をきっかけに、銀座のカフェーはその様相を変えていきます。

震災で一面焼け野原になってしまった銀座の地が復興していく流れの中で、個人経営の小さなカフェーが誕生していきました。
そして、それとともに美人女給(ウエイトレス)を取り揃え、彼女たちを客の隣に座らせ接待をするカフェーが増えていきます。

さらに、大阪から女給の接待をウリにする大規模カフェーが次々と銀座に進出してきたことで、銀座のカフェーの「エロ化」が加速していきました。

銀座のカフェー。円内:カフェータイガー、円外:カフェークロネコ(国立国会図書館デジタルコレクションより)

そんな中、カフェープランタンは女給は置きつつも、文化人が交流し、食事を楽しむ場としての真面目路線を貫きました。
しかし、震災以前に比べ銀座にカフェーの数が増えたことで客が分散し、カフェープランタンの客足も減少。後年は花柳界(※芸者屋など)への出前が主な収益源となりました。

華やかなる銀座の面影を辿って

現代においても「有名人が多く通う店」は存在するかと思いますが、お店の総数が増えた今、その時代を彩る有名人が一堂に会するカフェープランタンのような店は、きっとこれからは現れないんだろうな……と。

まぁ今同じような店がもしあったら、著名人同士の熱愛やら喧嘩騒ぎやらが写真週刊誌に撮られまくったり、ほかの客がスマホで盗撮してSNSにUPしたり……みたいな状況になりそうなので、時代の流れに沿った然るべき変化かな、とも思いますが。

カフェープランタンは、第二次世界大戦を経て取り壊されました。
かつて店があったのは、現在の銀座會舘がある場所です。

先日銀座に久しぶりに足を運びましたが、古くからある店もまだ多く残りつつ、一方で新しい施設なんかもできていて、新旧入り混じった街の姿は新鮮に感じられました。

新宿や渋谷など、東京の中心地は今や西側に移っていますが、東京随一の繁華街だったころの銀座の面影をたどりながら、銀ぶらにいそしむのもまた一興。

以上、連載コラム「喫茶よもやま通信」Vol.2でした。

「喫茶よもやま通信」のほかのコラムも、よろしければご覧ください。

連載コラム「喫茶よもやま通信」一覧

喫茶店/カフェーの歴史の全体的な流れについては、「和楽web」に寄稿した以下記事で詳しく書いています。こちらもぜひ。

※参考文献
『銀座カフェー興亡史』野口孝一
『銀座細見』安藤更生
『淪落の女』松崎天民

浅草出身のレトロ好きライター。Webマガジン「てくてくレトロ」主宰、明治〜昭和の喫茶店にまつわるコラムや取材記事の執筆。