喫茶よもやま通信

自宅焼失、投資で大損…日本最古の喫茶店「可否茶館」誕生の裏にあったある男の物語|喫茶よもやま通信 vol.1

喫茶店にまつわるよもやま話をお届けする連載企画「喫茶よもやま通信」。
第1回は、日本最古の喫茶店「可否茶館」についてです。

日本で最も古い喫茶店としてその名を知られる「可否茶館」ですが、その裏には、ある男性の波瀾万丈な人生がありました。

可否茶館の創業から閉店までのいきさつを、詳しくご紹介します。



まずは「可否茶館」をざっくりご紹介

「可否茶館」は、1888(明治21)年に創業した、日本で最も古いとされる喫茶店です。

「可否茶館」の正確な読み方はわかっておらず、「かひちゃかん」「かひさかん」「こーひーさかん」など諸説あります。

創業者は鄭永慶(ていえいけい)氏。通訳の家系に生まれ育ち、海外経験が豊富だった永慶氏は、ヨーロッパの「コーヒーハウス」を参考に、「知識を共通に学べる新しい場を作りたい」という思いから、「可否茶館」を創業しました。

上野にある記念碑の写真。円内の男性が鄭永慶氏(筆者撮影)

しかし経営はなかなかうまくいかず、負債を抱えて行き詰まった永慶氏は相場に手を出しますが、それも失敗。更なる借金を抱え、果ては自殺を考えこともあったそう……。

なんとか自殺は思いとどまり、「可否茶館」は1892(明治25)年に閉店。わずか4年という、短い歴史に幕を閉じました。

「可否茶館」はどんな場所だったのか?
鄭永慶とは、どんな人物だったのか?

詳しく解説していきます。

「可否茶館」以降、日本で喫茶店文化が発展していった全体的な流れについては、日本文化の入り口マガジン「和樂web」に寄稿した以下記事に書いています。こちらも併せてお読みいただけると嬉しいです!



「可否茶館」は本当に最古の喫茶店?

冒頭で「可否茶館は日本で最も古いとされる喫茶店」と書きましたが、「古い“とされる”」とわざわざ書いたのには、理由があります。

それは、同店の登場よりも前にコーヒーを振る舞っていた店が存在していたから。「可否茶館」の解説に入る前に、その点に触れておきます。

  • 1876(明治9)年頃 浅草奥山に開設された「油絵茶屋」(1)
  • 1876(明治9年)4月7日「東京絵入新聞」に報道された浅草の「御安見コーヒー茶館」(2)
  • 1878(明治11)年12月26日「読売新聞」に広告を出した神戸元町の茶商「放香堂」(3)
  • 1886(明治19)年11月 東京日本橋に開店した「コーヒーの店洗愁亭」(4)

(1)(2)は時期や場所が一致しているので同じ店かも? と思いますが、それぞれ別の文献に載っていたもので、店名が違うのでひとまず両方とも記載しました。

(1)『油絵茶屋』は、画家・写真家の下岡蓮杖氏が開設した場所とのこと。浅草で蓮杖氏の絵を展示していた時に、入場料の代わりにコーヒーを販売していたようです。「茶屋」と銘打っているとはいえ、メインは油絵の展示なので、「喫茶店」とは言いにくいかなー、という感じですね。

(2)〜(4)の店は、コーヒーを出していた(と思われる)ものの、どのような形態で運営していたか、詳細な文献が残っていないよう。

こちらは1923(大正12)年発行の『神戸市会社名鑑』。放香堂は元町通りにあったようです。(国立国会図書館デジタルコレクションより

一方で「可否茶館」は、開店目的がはっきりと「コーヒー店」を目指したものであり、お店の状態やお客さんの様子がわかる文献が多数残っていたため、「日本最古の喫茶店=可否茶館」が通説とされています。



「可否茶館」はどんな場所だったのか?

さて、前段が長くなってしまいましたが、ここからは「可否茶館」について。

「可否茶館」があったのは現在の上野。跡地には記念碑あり

「可否茶館」があった当時の住所は、「東京下谷区西黒門町二番地」。
現在の住所でいうと、「東京都台東区上野1-1-10」。上野広小路/上野御徒町駅と、末広町駅の中間くらいにあたります。

現在は「可否茶館跡地」として記念碑が建てられています。上野公園も近いので、ご興味ある方はおさんぽがてらにぜひ。

「可否茶館跡地」の記念碑(筆者撮影)

ちなみに当時の住所について、「西黒門町」ではなく「黒門町」としている文献も多く見られるようですが、『日本最初の珈琲店』の著者・星田宏司氏いわく、1888(明治21)年に黒門町という住所はなかったそうで(※星田氏が台東図書館に確認済)、正しいのは「西黒門町」だそうです。

ビリヤード台にシャワー室まで?!「可否茶館」の内装・設備・メニュー

「可否茶館」はどんな内装で、どんな食べ物・飲み物を出していたのでしょうか?
当時の常連客によって書かれた資料など、いくつかの過去文献を参考にしつつ解説します。

「可否茶館」は、青いペンキ塗りの洋館(木造)でした。敷地面積は200坪で、8間と2間の2階建てだったそう。収容人数は約50人と、なかなかの大型店舗だったようです。

入口に入ってすぐのところにはビリヤード台が設置されていました。
2階が喫茶室で、丸や四角などいろいろな形のテーブルがあり、椅子は普通の藤イス。壁には壁紙が貼ってあり、天井にはランプが吊るされていたそうです。

(ちなみに「壁には壁紙が貼ってあり」というのは常連客の談話から引用した箇所です。当時の住宅事情は詳しくわかりませんが、わざわざ書くということは、壁紙を貼るのは珍しいことだったのでしょう)

コーヒーは1杯1銭5厘。当時の物価でいうと蕎麦が8厘〜1銭ほどだったため、常連客の中には「1杯のお茶が蕎麦より高いのかぁ……」と思う人もいたそう。

『可否茶館広告』より。「カヒー(=コーヒー)」は一銭五厘、「同牛乳入(=ミルクコーヒー)は二銭と記載あり。(国立国会図書館デジタルコレクションより)」

食事メニューは、パン、バター、カステラなど数種の菓子。一品料理(詳細不明)もあったそう。
ドリンクメニューはコーヒーのほかに、洋酒にビール、日本酒。
煙草もありました。

可否茶館には、ビリヤード場があり、その他トランプ、クリケット、碁、将棋、国内外の新聞や書籍を揃え、筆や硯もありました。また化粧室もあり、夏場にはシャワー室や氷店も設けられたのだとか。

「これ本当に喫茶店なの?!」と驚くような豪華な設備の数々。

これは創業者の鄭永慶氏が、「可否茶館」を単純に飲食をする場としてではなく、「知識を共通に学べる新しい場(コーヒーハウス)」とすることを目指していたからです。

ここからは、永慶氏の経歴とともに、「可否茶館」の創業経緯やその目的を解説していきます。



創業者・鄭永慶氏の人物像と、「可否茶館」の開店〜閉店までの顛末

自身の病気、妻の死、自宅が火事で焼失…鄭永慶の「可否茶館」創業経緯

「可否茶館」の創業者・鄭永慶(ていえいけい)氏は、長崎の唐通詞(中国語の通訳)の子孫です。名前からすると中国の方かな? という印象を受けますが、日本人です。

お父さんである鄭永寧(ていえいねい)氏は外交官として、清国公使(公使=外交使節の一階級で、大使の次に偉い人)も務めた人物でした。

永慶氏は京都仏学校を経てアメリカにわたり、イェール大学で学んでいました。このままエリート街道まっしぐら……と思いきや、病気のため大学を中退し、帰国。

その後は教職を経て、知人のツテをたより外務省や大蔵省などで働いていました。しかし、学歴がないため良いポストには就けず、失意の中、自ら辞職……。

すると辞職したのと同じ年の1887(明治20)年、永慶氏の自宅が火事になってしまいます。
家も仕事も失い、さらに言うとその1年前には、妻も病気で亡くなっていました。(この状況、辛過ぎないか……?)

永慶氏は、焼け跡200坪に新たに洋館を建てます。そして、「学校を作りたいが、しかし……」と悩みました。

実は永慶氏、以前から学校を作りたいと考えていたそうです。しかしそのために必要な莫大な資金を用意できず、学校創設は断念。

そして、「可否茶館」をオープンしました。

学校の代わりに喫茶店を作った、と聞くと一見不思議にも思えますが、永慶氏が目指したのは単に飲食物を提供する場ではなく、「知識を共通に学べる新しい場(コーヒーハウス)」です。

「コーヒーハウス」は、フランスやイギリスに17世紀に誕生したもので、新聞や書籍などを取り揃えており、人々はそこでコーヒーを飲みながら、身分や階級の差を超えた文化的交流をしていました。

永慶氏は海外にいた時にコーヒーハウスを目にし、「日本にもこのような場を設けたい!」と考えたのです。

しかしこの記事の冒頭でも書いた通り、経営はうまくいかず、創業から4年後の1892(明治25)年に閉店。
その大きな原因は、「可否茶館の理念が理解されなかったこと」です。

時代を先取りし過ぎた「可否茶館」。負債を抱えた永慶氏は相場に手を出し大損

永慶氏が掲げた「知識を共通に学べる新しい場」という理念は、当時の日本人の生活・意識からすると理解しがたいものでした。

可否茶館がオープンしたのは、欧化政策の一環として「鹿鳴館」が作られた数年後。「日本も近代化(西欧化)してるよ!」のアピールのために作られたけど舞踏会でのマナーがぜんぜんなってなくて「滑稽だ」と海外の人に陰口を叩かれた……という悲しいエピソードがある、あの鹿鳴館です。

形だけの「西欧化」を推し進めて満足していたような時代ですから、「知識を共通に学べる場」と言われても、大半の日本人の頭の中には「???」とクエスチョンマークが浮かんでいたことでしょう。

(ちなみに、永慶氏は鹿鳴館の表面的な西欧化アピールを良く思っていなかったそう)

常連客の言葉が残された資料には「可否茶館に行く=ハイカラなことだった」との記載があり、おそらく最初のうちは物珍しさから流行ったことと推察されます。しかしどうやら、飲み物・食べ物を頼まずに、施設で遊ぶだけの人も少なくなかったよう。

経営は初めから赤字で、常連客もどんどん少なくなり、結局残ったのは、ごく少数の「可否茶館」のあり方に共鳴した学生と文士くらい。

教え子である秋山定輔氏(岡山出身の政治家)は、友達を連れて毎日のように足を運んでいたそうですが、「先生(註:永慶氏のこと)がボーイの姿で茶を運んだり菓子を出したりするのを見るに忍びない」との言葉を残しています。

「可否茶館」は赤字続きのまま営業を続けていましたが、ある日永慶氏は膨らんだ負債をなんとかしようと、相場に手を出してしまいます。

しかしうまくいかず、手持ち資金が底をつくと土地を担保に借金をしてまで投資を続けますが、どんどん損失が膨らみ、そのうちに借金の期限がきてどうしようもない状況に……。

行き詰まった永慶氏は、ついには自殺を考えます。

自殺を思いとどまりアメリカへ密航。「可否茶館」は4年の歴史に幕を閉じた

大きな負債を抱え行き詰まっていた当時の永慶氏は、周りから見ても自暴自棄になっている様子が伺えたそう。

それを見た教え子の秋山氏は虫の知らせを感じ、永慶氏の机の脇の引き出しを調べたところ、遺言書を見つけます。

「これはまずい」と思った秋山氏は、ある日無理矢理、永慶氏を散歩に連れ出します。

まずは浅草に行き、渡し船に乗って向島へ。そして、落ち着いて話せる場所を探して言問(こととい)から少し先の「鮎こく」という店へ行きました。

浅草から向島(墨田区)へ渡ったということは、隅田川の渡し船に乗ったのでしょう。言問=向島の隅田川東岸地域の旧称。写真は現代の浅草・隅田川(筆者撮影)

秋山氏は、小さい時に永慶氏から受けた恩のことから、話し始めました。そして、遺言書を見つけたことや相場で失敗したことなど、自身が知っているあらゆること、そして感じていることを、涙しながらすべてさらけ出しました。

最初のうちは自殺のことを隠していた永慶氏ですが、秋山氏のその様子に嬉し涙を流すほど感動し、「実は、今晩にも明日にも、ピストルで自殺するつもりだった」と告白しました。

秋山氏の言葉で自殺を思いとどまった永慶氏。どうにかこの苦難から逃れる手はないかと2人で相談し、「名前を変えてシアトルに密航しよう」という結論に至りました。

秋山氏の助けも借りながら、永慶氏はアメリカに密航。そして、開店から4年後の1892(明治25)年に、「可否茶館」はその歴史に幕を閉じます。



「可否茶館」の存在が、日本の喫茶店文化の起点となった

「可否茶館」が閉店した約20年後——。

1910(明治43)年には、文芸雑誌『スバル』『白樺』の若き文学者たちが交流を深めた「メイゾン・鴻の巣(日本橋)」がオープン。
そしてその翌年の1911(明治44)年には、森鴎外や谷崎潤一郎など、名だたる文化人が常連客として通った「カフェー・プランタン(銀座)」がオープンしました。

これらは、パリの芸術家たちが交流を深めた場所「カフェー」の影響を受けています。そしてこの頃から、「文化人たちの交流の場としてのカフェー/喫茶店」が徐々に増えていきます。

これは、永慶氏が実現したかった、「知識を共通に学べる新しい場(コーヒーハウス)」の理念に通ずるものがあるように感じます。

永慶氏はシアトルに密航した3年後、1895(明治28)年に、37歳でその生涯を終えました。
もし彼が20年後の日本で、文化人たちが交流する喫茶店の姿を見たら、どんな思いを抱いたのでしょうか。

「可否茶館」の登場があと20年遅ければ、赤字続きでの閉店は免れたかもしれない——。そんな風に思うものの、「可否茶館」の存在があったからこそ、コーヒーが一般市民に広く飲まれ出したのも事実。

そう考えると、やはりあの時代に「可否茶館」が創業したのは意味があったことだったのでしょう。

永慶氏は病気で大学を中退したところからエリート街道を外れ、めぐりめぐって喫茶店をオープンすることとなりました。

これは、中央官庁での活躍を望んでいた永慶氏にとっては望んだ道ではなかったかと思いますが、「可否茶館」がその後の日本の喫茶店文化の発展に大きな影響を与えたことは間違いありません。その点で、永慶氏が残した功績は非常に大きかったのではないか、と感じます。

以上、喫茶よもやま通信 vol.1、日本最古の喫茶店「可否茶館」についてでした。

次回以降も、喫茶店やカフェの歴史をぐぐっと深掘りしていきます。

てくてくレトロ、および「喫茶よもやま通信」の更新情報は、編集長・中村のツイッター(@2erire7)にて。

次回も読んでいただけると嬉しいです。それでは、また。

※参考文献
『日本最初の珈琲店』星田宏司
『喫茶店の時代』林哲夫

ABOUT ME
中村 英里|てくてくレトロ編集長
フリーランスライター。明治〜昭和頃の喫茶店の歴史にまつわるコラムや、純喫茶の取材記事などを執筆。Twitter:@2erire7